自立と共生!    たくましい日本!      No.221号(その2)

民主党 中川正春   永田町かわら版  2004年8月27日
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クウェート〜ヨルダン(アンマン)

任務の交代で、ちょうど現地から引き揚げてきた2次隊のメンバー120人がクエートにいました。彼らを、大使が公邸に招待して、私たちと懇談する場を作ってくれました。皆、日焼けした顔に相手を射抜くような眩しいほどの目の輝きを持っています。平均年齢20歳半ば。50度を超える酷暑と緊張の連続が顔を引き締めるのだと司令官が語ってくれました。しかし、どこまでも屈託なく、任務に疑う事のない充実感を感じているようで、とても明るいのです。「迫撃砲が近くに着弾した時は、夜中でしたが、その激しい振動に目を覚ましました。でも、怖いという思いは、そんなにわいて来ないものです。」とは言うものの、迫撃砲が、いつみなの寝ているコンテナの上に落ちてもおかしくない状況には違いありません。犠牲者が出ることが心配です。

 後に、ヨルダンのアンマンで聞き取りをしたNGOのアメリカ人が、「私たちが、イラク現地で活動が出来るのは、その地域の人達との信頼関係があるからです。皆が守ってくれる中では、テロ集団も私達をねらうことはありません。民間の立場で復興支援活動をする方が安全です。」と、言い切っていたのを思い出します。彼女達は、壊れた水道や下水を修理して恒久的な水の確保を図っています。現状で25団体がイラク国内に人道支援活動を繰り広げていると言います。「私は、自分の国、アメリカが間違った戦争をしたと思う。だから、こうして現地に入って活動をしているのです。違った考えを持つアメリカ人もいるのだとイラクの人たちに分かって欲しいと思っています。」近いうちに、彼女はまたイラクに戻るのだと言います。

クウェートにあるアメリカ軍の各国受け入れ中継基地、キャンプ・バージニアとアリー・アル・サーレム基地も訪問をしました。イラクとの国境付近の砂漠の中。猛暑と砂嵐の広漠とした砂漠の中にたたずむ巨大なテントとバラックの基地です。これからサマワに赴く自衛隊3次隊が慣熟訓練をしていました。私達も防弾チョッキとヘルメットをつけて、装甲車に乗り現地の体験をしました。50度を超える炎天下で、巻き上げる砂塵に耐えながら20キロ以上の防弾チョッ

キに身を固めて警備をする過酷さ。日本から新たに着任したばかりの3次隊は、緊張した面持ちの中にあります。益々危険度が上がる状況の中で、そして、これほどまでに過酷な条件で、それに見合う価値のあるミッション(任務)を私達政治が彼らに託しているのだろうか。考えてみれば、軍隊の本当の任務は治安維持です。しかし、自衛隊は、武力の行使はできない。だから、人道支援と称して、水の浄化を手がけています。ところが、水の浄化や水道システムの回復だとかの仕事は、本来は、民間の仕事。NGO自身が、自分達の方がテロには、ねらわれることが少ないというのです。地元の雇用も起こせる。このことが、私の頭の中から離れません。自衛隊の人道支援(水の浄化)は、民間NGOを活用した支援に切り替えるべきだと、改めて確信しました。

イスラエル

 この後、ヨルダンを経由してイスラエルに入りました。アメリカのテロとの戦いという大義が鮮明になった事から、イスラエルのパレスチナに対する仕打ちも、テロとの戦いという名目のもとに過激になっています。

 エルサレムは、とても不思議な町です。ユダヤ教オーソドックスの人たちの黒いモーニングに山高帽とおなかまで届くひげ。「嘆きの壁」に連なる祈りの部屋では、経典を前にじっと黙想する姿が見られます。そこから、細い路地をしばらく歩くと、みやげ物を売る店が軒を連ねるアラブ系キリスト教徒の街並に移ります。映画「パッション」にでてきた、キリストの処刑が行われたゴルゴタの丘とされる場所には、聖墳墓教会があります。処刑の後、弟子達に抱きかかえられて横たえた石の台。そこに口づけをしながら敬虔な祈りをささげる人々。ところが、ここで一歩建物を出ると、拡声マイクで朗々と響くイスラムの祈りの時間を知らせる澄み切った声に出会います。イスラム教徒のメッカに次ぐ聖地、黄金のドームは、やはり、この旧市街の真中にあります。

 (次は、ミャンマーから帰ってからのシリーズに続きます。)